昭和51年03月19日 朝の御理解
御理解 第4節
「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」
金光大神今じゃなかったら、金光教はありえませんし、また私大坪総一郎自身も、今日ありえてなかったと思うです。ね、確かに金光大神は、天地金乃神様からも恩人でおありになるように、私大坪総一郎から言うても恩人であります。そういう風に言うて参りますと、皆さんの場合でもやっぱり、同じ様な事が言えれる内容にならなければ、金光教の信心によって、本当に助かると言う事は言えないと思う。
金光様はござらんでっちゃ、天理教様がござるから、金光様はござらんでっちゃキリスト様がござるからと言う様な事では、いわゆる金光教の助かりと言う事には、いわゆる程遠い事になります。ね、天地金乃神様からも恩人なら、ね、氏子からもと言う事は、私自身と言う事だと思う。私自身大坪総一郎私自身も、もし金光大神いまさなかったら、私の運命はどうなっておったか、恐らくはこの世にはもう、いなかったであろうと思われるほどしであります。
ですから私、大坪総一郎にとっても、金光大神はね恩人である。そこでなら皆さんの場合にもです。そこまでの事が思えれ言えれる信心内容が出来てこなけりゃならんのですよね。金光教の信心をやめたら、もう何々様でもない。ね。そこ辺の所のね、やはり思い込みが先ず大事だと思う。そこからです恩人の言われる金光大神の言う事は、言われる事ですから、例えそれが無理なことであっても、聞かん訳にはいかんと言う事になるのではないでしょうかね。恩人金光大神が言われるのだから。
恩人金光大神が頼むように言うておられるのであるから、ね。それを左右にするわけにはいけん。泣く泣くでも矢張りそれを受けて立たなければならん、守らなければならんという事になってくるのじゃないでしょうかね。果して皆さんのために、金光大神がそのようにです。命の恩人として心の中に、確かに頂かれておるかどうかと言う事が、だからこの、ここの御理解ではあの大事だと思います。
今日はご神前で、あの忠忠義の忠という字を頂いたんです。これは中心と書いてありますよね。こう分解いたしますと中という字を書いて、心と書いて忠義の忠になります。ああ今日はもう心の中。もう心一つだと言う事だなと思うた。そしたらあの善意と親切と言う事を頂いた。ね。そういう大恩人の言われる、例えば金光大神の言われる事であってもなら中々持って、それがそうと中々守れないのが事実であります。ね、そこで段々信心の稽古をさせて頂くうちにです。
私どもの心の中というものが、ね、善意に満ちてくる。言うなら悪意というものが、さらさらない。ね、邪気がない。ね、私は自分で自分の心を思うて見た。私の心の中には確かにあの神心とは程遠いに致しましても、善意に満ちておるなと自分で思いました。そして、誰よりも私は邪気が少ないなと、自分で思うた。ね。次には親切の心。ね。親が子を思うほどしの切実心が、誰彼の上にも使えれると言う事。ね。この心がです私共の心の中に一杯あるならばです。ね。
最後に「金光大神の言う事を守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」私共が金光様と、これはお縋りをする、その心の内容というものがです。金光大神の言う事にそむかぬようという事を段々ならそむいたり、そむかんかったり。守ったり守れなかったりでもありましょうけれどもです。段々私の心の中が善意に満ちてくる。
邪気が無くなってくる。私はここん所で思うてみなきゃならんのですけれども、お互いの心に果して悪意はないだろうかと言う事です。善意の反対。無いごとあるけれども何かのときに、悪意というものが起こる事がありはせんだろうか。そんならやっぱあるわけです。ね。果たして自分の心の中には、どのくらいな親切心があるだろうか。ね。親切所か自分は不親切だなと言う様な所があるなら、改めていかなきゃならん。
もう私が助かるためにも、親切心と善意が心の中に満ちておると言う事は、もうすでに私は幸せだと思うです。ね。そういう心の状態におかげが頂けて来ると言う事になれば、愈々幸福と言う事になるのです。ね。例えば商売を致しておりますと、矢張り商売敵というのがある。ね。うちは売れてあちらは売れんほうが良かと。もうこれはすでに悪意です。ね。はあもううちの嫁ごばっかりはと。そう言う様に嫁ごの足元ばっかりを見る心は、すでにもう悪意です。ね。
ほんにうちの婆しゃんばかりはと。例え言うとるならもうすでに悪意です。善意に満ちてない。例えばそれが悪い所が見えてもです、可愛そうな人だという心が起こったら善意です。ね。気の毒な人だなと思うたらそれは善意です。今日は私共の心の中に、果して善意に満ちておるか。親切心が一杯であるか。私は教えの一つひとつは例えでけてなくても、この事に本気で取り組ませて頂いてです、ね。本気で親切の私になろう。邪気を祓わして頂いて、善意に満ちた私にならせて頂こう、ね。
そこからですいわゆる、金光大神の言う事にそむかぬようにと言う事になるのではないかと思います、ね。同時に私はね。金光様が私共の本当に恩人であると思えれる内容を頂きたいと思います。曲がった根性の人には真っ直ぐい事でも、返って曲がって見えるもんだと申します。ね。だから悪に見え曲がって見える時には、自分自身の根性を先ずすぐく直くして行く精進が必要です。
そこからおのずといわゆる、本当の善意が生まれてまいります。ね。自分が親切にされたときの事を、嬉しかった事を思うて、この嬉しかった事を、人にもまた伝えていこう。人にもまた施していこうというのが親切です。ね。自分が親切を受けたときの事を思うたら、人にもまた同じ親切を分け与えて行く事が出来ます。私共信心させて頂くものの心の中に、親切と善意が満ち溢れてくるようなおかげを頂きたいですね。
どうぞ。